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・珈琲史・日本と永田珈琲倶楽部・

旅立ちの出発店

永田珈琲倶楽部果てしない珈琲の旅路

Ver.4.  1996.4.1.

【 付録・永田珈琲倶楽部の現時点までの歴史 】


1690年
長崎の出島にオランダ人が珈琲を持ち込む。
1724年
オランダ人ヨハネス・ティデンズが西洋のテーブルマナーについて、講義した内容の記録 「和蘭問答」の中に珈琲を記すると思われる最初の記述「唐茶」が出てくる。時の将軍は8代吉宗。
1776年
出島の蘭館医ツンベルクの著書に「日本では2、3の通訳しか珈琲を知らない」とある。
1782年
「阿蘭陀の常に服するコッヒィというものは形豆の如くなれど木の実なり」。長崎の蘭学者、 志築忠雄の訳書「蔓国官窺」にある。
1783年
蘭学者、林蘭?が「紅毛本草」に珈琲の記事を発表。
1795年
広川?による「長崎聞見録」に「かうひい」のひらがな文字と効能の記述が見られる。
1804年
大田南蜀山人、日本人初の珈琲引用体験を「瓊補又綴」に残す。
1811年
大槻玄沢、宇田川玄真らが翻訳書「厚生新編」に、コーヒーの花や実の絵入りの解説を記載。
1826年
「長崎出島」詰めの医師シーボルトが「薬品応手録」にコーヒー引用を進めた一文を掲載。 コーヒーは長寿をもたらす良薬として大いに宣伝している。
1856年
商品としてのコーヒーがオランダより入荷。シーボルトが、ハワイのコーヒー豆を持参。
1858年
日米修好通商条約が調印され、自由貿易が開始する。アメリカに続き、オランダ、ロシア、 イギリス、フランスとも同様の条約を結ぶ。翌年から横浜、長崎、函館、の三港で貿易開始。 コーヒーの輸入が正式に決まる。同年安政の大獄。
1868年
日本のコーヒー輸入金額が742円という資料が残っている。
1869年
「萬国新聞」15号にコーヒーの広告が記載される。「エドワルズ生珈琲並焼珈琲」と言うもの。
1870年
東京築地の牛馬会社が牛乳普及のために出した「肉食の説」の中に、牛乳の中に珈琲を混ぜると 飲みやすくなると言う宣伝文が記載された。
1877年
珈琲輸入量が18tという資料が残っている。
1878年
小笠原で珈琲の木試植。三年後に開花。4年後に結実し45kgを収穫。があくまでも試験で 一般栽培はされなかった。トコロガ・・・・・・・・ソシテ・・ソレカラ120年後の1996年2月。 この小笠原で今まだ珈琲を実らせている方がいたのです。 出来れば生豆をとお願いしていたのですが何しろ絶対量が少ないとのことで、その方の煎り豆が手にはいることに なったのです!!。珈琲の世界にはこういうロマンを追いかけている人がいるから、いいですね。 今まだ手には入っていませんが(1996.2.23)来週中には入ります。皆様に分けてあげられないのが本当に残念です。
1886年
東京日本橋の小網町に「コーヒーの店 洗愁亭」が開店。
1888年
上野西黒門町に鄭永慶によって「可否茶館」が開店。なんの事はないそれからのこの世界は型を 変えながら鄭永慶さんのコンセプトを継承していることになるのです。もっと前はやはりヨーロッパの珈琲文化にた どり着くことにはなるのですが。この当時に日本でやったということが凄いことだと思います。ちなみに内容は、 お酒から料理、雑誌、新聞、碁、将棋、ビリヤード、それになんと茶室まで完備というわけですから和洋折衷の良い ところをとりいれて、珈琲による文化交流の場にしたかったのでしょうが、いかんせん米一生が三銭五厘の時代に 珈琲の一銭五厘は一般庶民には高かったのでしょうか4年程で閉店となりました。理想を追うことの難しさ私も 身につまされます。
1889年
第三回内国勧業博覧会の会場にコーヒー店が出展される。これが好評を博し、翌年には浅草パノ ラマ館に「ダイヤモンド珈琲店開店。この年帝国憲法発布。
1899年
加藤サルトリ博士、インスタントコーヒーを発明。
1911年
松山省三、東京銀座に「カフェ・プランタン」を開店。各界の著名人が集まった。同年、水野龍 の「カフェー・パウリスタ」開店。その背景にはブラジル政府からの無償供与のコーヒー豆があった。 大逆事件の幸徳秋水らの死刑執行。
1913年
「カフェパウリスタ」全国に出店。上海にも出店しその数22店舗に及ぶ。同年コーヒー輸入量 が100tを超える。翌年第一次世界大戦勃発。
1930年
東京のカフェが7000軒。女給1700人。
1934年
コロンビアコーヒー輸入開始。カフェ全国30000軒。
1935年
東京15000軒。(内3000軒が音楽喫茶や純喫茶)
1937年
戦前のコーヒー輸入量がピークを迎え8571tを記録。
1938年
「戦時体制」の強化に伴い輸入量前年の半分に規制!
1939年
コーヒーに10%の物品課税が決定。ちまたでは大豆や小麦、チュウリップ、はぜの実、うるしの実 、百合根、甘藷、稗等実に多くの種類を珈琲もどきとして、飲みたいばっかりに代用コーヒーが出廻る事になった。
1941年
コーヒーに20%の物品課税が決定。太平洋戦争開戦。
1942年
コーヒー輸入量0に。
1943年
コーヒーに30%の物品課税が決定。
1945年
太平洋戦争終結。
1950年
コーヒー豆輸入再開。
1958年 昭和33年 
若者がクリスマスに過ごす所のダントツNO1は喫茶店であった。
1960年
コーヒーの生豆自由化。
1961年
インスタントコーヒー全面的に自由化。
1966年 昭和41年
小平駅北口前2階・・軽食喫茶 シンザンオープン20坪45席
1968年 昭和43年
小平駅南口 ショッピングセンター内 2階パーラー喫茶 シンザンオープン15坪35席
1969年
1968年の国際コーヒー協定に正式加盟。
1969年
富士山登頂
1969年(昭和44年)
ティーバッグ、ティーサーバー方式を採用する喫茶店が急増。 7月ブラジル・パラナ州で大霜害発生。珈琲耕地面積の97%が被害。
1970年(昭和45年)
日本人の珈琲消費量が年間55杯、651gで世界15位。 家計費の珈琲支出額は1114円で1965年度より6割り増し。季刊「喫茶店経営」発刊。 服部栄養専門学校で喫茶・スナック専門コースがスタート。
1971年(昭和46年)
ジュータン喫茶、あなぐら喫茶の系譜上にマットレスを敷き詰めた ミニコミ喫茶が台頭。珈琲生豆の輸入総量68、448トン、1965年の3.7倍増。キロ当たり218円。大阪で 9900円、東京渋谷で5000円の珈琲を売る店が出現。モーニングセットが人気に。一般的珈琲相場100円〜150円。
1972年(昭和47年)
全国に約300店のジャズ喫茶が盛業。ダッチコーヒーが静かなブーム。
1973年(昭和48年)
純喫茶から軽食を加えたスナック業態への移行傾向が強まる。
1973年 昭和48年
小平駅南口 ショッピングセンター内 2階パーラーシンザンを珈琲専門店 POEMにして オープン  この転換が今日まで、脈々と続きます珈琲に対する大きな礎を造り上げること になります。同年 有限会社 ナガタ 法人化。
1974年(昭和49年)
全国の喫茶店件数85,836店。ドイツのメリタ社が日本上陸。活動開始。
1975年(昭和50年)
コーヒー生豆の東京標準卸売価格は、ブラジル#2メッシュ18が610円、 ガテマラ545円、コロンビアスプレモ560円。7月・ブラジルで50年来と言われる壊滅的大霜害発生。 パラナ州、マットグロッソ州いずれも全滅。サンパウロ州でも半減。
1975年 昭和50年
小平駅南口一番街通り 仲町 1階 パブスナック セブンファイブオープン9坪   アルコールの世界と、珈琲は一杯一杯、その頃出始めたダイヤミルで香りを狭い空間にたくさん漂わせて提供致しました。
1976年(昭和51年)
エスプレッソコーヒーが第三の抽出法として注目度高まる。前年のブラジル大霜害で、 コーヒー生豆が急騰、高値安定が持続。卸価格は、冷害前のキロ900円が1800円と2倍に。 喫茶店のコーヒー売価も値上げ続出。全国の喫茶店数106.937店。 コーヒー豆を買う場所のあるアンケートの結果→挽き売り専門店39%、百貨店23%、喫茶店18%、スーパー9%、 お茶や 5%。
1978年 昭和53年
西武新宿線 新井薬師  珈琲専門店  オープン    15坪 38席
1978年 昭和53年 
70年代前半の急成長を遂げたコーヒー専門店にも陰りが見えてきたとの認識高まる。 インベーダーゲーム人気が爆発、テーブルTVゲーム機が喫茶店にも進入。
1979年 昭和54年 
商業統計によると全国の喫茶店舗数143、040店。
1980年 昭和55年 
ドトールコーヒー、150円の立ちのみコーヒーと挽き売りを主力とするドトール コーヒーショップを原宿に開店。その後の展開はヨーロッパの世界を取り込んで、日本のコーヒーの世界での棲み分けの 一方をまさに破竹の勢いで展開、しっかりと根付いてしまうことになる。63店舗を展開したぽえむチェーン、東京渋谷 スペイン通りに珈琲共和国を開店。140000000円投下、56坪、102席。
1982年 昭和57年 
商業統計によると全国の喫茶店舗数161、996店。 カフェバーがあっと言う間にブームに。
1983年 昭和58年 
カフェインレス珈琲がデカフェの呼び名で急成長。日本珈琲販売共同機構、東京渋谷 に珈琲専門店への原点回帰をテーマとする「珈琲三昧」を開店。
1985年 昭和60年
小平駅南口 グリープラザビル2階 珈琲専門店・永田珈琲・オープン 27坪62席 高付加価値珈琲店。 珈琲一杯500円 他相場300円。 その後11年間何と据え置き。1996年現在500円。
1985年 昭和60年 
柴田書店の「力いっぱいのコーヒー屋」の中で、今後の五つの進路として・低価格 高回転商法・高価格プレステージ型商法・付加価値創造型商法・合理化省力化型商法・脱店舗外販商法を示唆する。 カフェ・ラ・ミルの一号店東京浜松町に開店。
1986年 昭和61年 
商業統計によると全国の喫茶店舗数150、608店。
1987年 昭和62年12月
永田珈琲 [喫茶店経営 ]掲載
1987年 昭和62年10月
[C O OK] 掲載
1987年 昭和62年
小平駅南口 グリープラザビル 2階 スペース こもれびオープン 13坪 25席
1988年 昭和63年 NO15
[ DRY BONES CLUB INTORODUCTION ]掲載
1988年 昭和63年 7月
[アサヒタウン SHOPPINNG ]掲載
1988年 昭和63年
VOL9 [武蔵野から ]掲載 
1989年 昭和64年・平成元年
商業統計によると全国の喫茶店舗数132、932店。
1989年 昭和64年12月
[喫茶店経営] 掲載
1989年 平成元年2月22日
パソコン通信 PC−VAN 加入する。
1990年 平成 2年 9月
[喫茶店経営] 掲載
1990年 平成 2年 6月
読売新聞 [街の経営者]として 掲載
1990年 平成 2年 1月
小平市役所 珈琲教室 講師
1990年 平成 2年 2月
小平市民講座 珈琲哲学パートT 講師 一ヶ月 4回務める。 この時の受講生の皆さんで[ブレンドの会]という会を作り毎月一回こもれびに集まり、[今月の香 ]の珈琲を飲み ながら談笑する事になります。(1996年3月まで一回も休むことなく続いています。72回!)時代の流れとして 異業種の人達が、何かの共通のものがありそれによって人の繋がりが出来る、そう言う世界です。これからの時代にと っては大切な時間空間を創り出す場となるかも知れません。
1990年 平成 2年 2月
読売新聞 [珈琲哲学講座風景]写真入りで紹介
1990年 平成 2年 3月
小平駅北口  2階 シンザンを直火式自家焙煎珈琲工房に3キロ釜設置 この世界にたどり着くまでに実に多くの時間、エネルギー、思考を費やしてきた。実現できたおかげで、これからの 展開が360度の広さで見えてきた。やるかやらないかは時間と決断との戦いである。珈琲豆に対してのより絞り込み、 集中化。単品勝負の世界へ。自分がやるべき事、進むべき方向性がだんだん分かりかけてくる。
1991年 平成 3年 1月
[喫茶店経営 ]掲載
1991年 平成 3年 6月
[喫茶店経営 ]掲載
1991年 平成 3年11月
[るるぶ 東京 WEST]
1992年 平成 4年
[多摩の味 150店 ]掲載         
1992年 平成 4年
小平商工会 商店経営講座 講師
1992年 平成 4年 7月
TBSテレビ 永田珈琲店放映 子供電話相談室名司会のお姉さん[平野市子さん]の御案内で紹介さる。  
1992年 平成 4年10月
[じゃらん ]掲載
1992年 平成 4年10月
[喫茶店経営] 掲載
1992年 平成 4年
ゆうの会 珈琲講座講師
1992年 平成 4年
[多摩名店 101店 ] 掲載
1992年 平成 4年 11月
勇躍珈琲豆生産地視察にガテマラへ!! 方向性せばめた中に生産地訪問は どうしても必然的に発想。現地の状況を表面だけでも知る必要があった。あわよくば借り床での摘み取りもと考えたが 現時点では力不足。この経験はこの後財産になっていく。
1993年 平成 5年 9月
直火式自家焙煎珈琲工房 10KG釜を完全オーダーで新設置。珈琲の香出店の為 の増設。これまた大正解。懐広がる。
1993年 平成 5年 11月15日
小平駅南口  ルネ小平セブン街 1階 珈琲専門店 珈琲の香オープン 20坪42席今までのように、自分で流れを作ることなく、流れの中に身を委ねる世界を味わう。(一階という設定)。
1993年 平成 5年 4月
[喫茶店経営 ]掲載          
1993年 平成 5年10月
[るるぶ 多摩 ] 写真とともに掲載
1994年 平成 6年 5月〜6月
小平市民講座 珈琲哲学パートU 講師 二ヶ月 6回務める。 二回目の受講生の皆さんで[珈好琲会]・かすぴかい・と名付けました会が発足されました。この会も月に一回 ・かたらい・ます。毎月珈琲に関して何を経験したか述べてもらいまして、いろんな話がたくさん出ることによって 時間があっという間に過ぎていくのです。土曜日の午後のひとときこういう世界もあるのです。珈琲は凄い!
1994年 平成 6年 7月
[OYSYコーヒー・紅茶] 掲載 柴田書店
1994年 平成 6年 8月
珈琲教室 黒磯料理学園講師  
1994年 平成 6年 9月
[小さい旅 掲載] 西武新宿線  学研
1994年 平成 6年10月
保険毎日新聞 [自分の文化風景]・林氏 とても名文
1994年 平成 6年10月
社会福祉協議会役員の皆様に珈琲のお話
1994年 平成 6年   
パソコン通信 Nifty−Serve 入会。
1994年 平成6年 12月
珈琲工房シンザン 豆小売り(含む宅配)展開開始!!! 日本に珈琲が 輸入されてこのかた、珈琲が普及する為の大きな流れが見えてきた。しかし宣伝出来ず弱い弱い。
1994年 平成 6年 4月
[多摩の味180店 ]掲載永田珈琲.珈琲の香店同時 掲載
1994年 平成 6年 3月
朝日新聞 アサヒタウンズ 掲載 SHOPPINNG 欄 [探求心を持って店づくり]
1994年 平成 6年 9月
なんと悲しいことでしょうか。喫茶業を支え、発展させてきました[喫茶店 経営]が突如廃刊になってしまったのです。喫茶業ももはや先がないとのお知らせでしょうか?日本の珈琲文化の歴 史を正統派の流れとして我々を引っ張ってくれてきたこの雑誌は私にとりまして、情報バイブルでしただけにきつい ものがあります。統計上の喫茶業数が年々減少していることはこの年表でもわかると思いますが、私などは現場まっ ただ中での毎日ですから特にその流れがわからないわけではありません。しかし街の中から喫茶店がなくなったら・ ・・。ただ単に飲み物だけを売っているところでは決して無く[心の世界]をも(これを述べるのは別の機会にしま して)提供しているのです。これを自覚することは大変でそうする前にお店が無くなってしまうと言うのが現在なら ばやはり[喫茶店経営]は賢明だったと。しかし私は現場からこれからも情報を発信するつもりです。時代と年齢と 体力と金銭と知力とその他の諸々の条件をどこまで受け入れて、この偉大なる珈琲文化を喫茶店という業種の中で継続 出来るかわかりませんがやっていきます。・・・・幸いなことにインターネットの世界が突如として現われました。 こうやった個人の出来る内容は微々たるものですが少しずつでも良い、内容を高めていけたらとの考えで、当たり前の ことですが、あくまでも机上の空論ではなく[現場からの美味しい珈琲]を提供しながら進んで行くことにしましょう。 時が何かを与えてくれることを信じて。
1995年 平成 7年 4月
天神町クオリ壱番館インフォーメイション掲載
1995年 平成 7年 6月
永田珈琲倶楽部 [喫茶&スナック ]掲載  
1995年 平成 7年 7月
ぽえむ [喫茶&スナック ]掲載
1995年 平成 7年 5月
通信パソコン&インターネット上で珈琲の世界をより広く発信できないか可能性 を求めて試行錯誤開始。
1995年 平成 7年 8月
新聞[ニッキン]・東西ペンリレー・2267回分に佐藤英樹氏の[珈琲雑感]と題して紹介さる。
1995年 平成 7年 8月
BEKKOAME 入会。
1995年 平成 7年10月 30日
ホームページ完成!約半年の試行錯誤の末である。これに至る副産物凄い。
1995年 平成 7年11月 3日
ようやくネット上にオン。珈琲の世界からは日本で最初に発信出来た。 後は少しずつ内容を濃くして、あくまでも机上のもではなく焙煎現場サイドから新鮮な珈琲を(こだわりの世界をその時 点で最大に織りなし)提供しながら展開したい。珈琲豆全国販売開始。
1996年 平成 8年 1月 23日
倶楽部ホームページ [日経流通新聞 WHAT's NEW] 掲載。  ホームページの訪問者増える。100人目ごとのお客様に[今月の香]を記念に贈ります。
1996年 平成 8年 1月 29日
倶楽部ホームページ[INTERNET GUIDE]掲載
1996年 平成 8年 2月 12日12:05
ホームページ[永田珈琲倶楽部店]来店のお客様900人目突破!このカウントはあくまでも目安ではあるが今後の展開に嬉しい限りです。
1996年 平成8年 2月 15日 15:20
ホームページ[永田珈琲倶楽部店]来店のお客様1000人目突破!・神奈川・川崎市・川鍋様
1996年 平成 8年 2月 23日12:00
ホームページ[永田珈琲倶楽部店]来店のお客様1200人目 突破!・東京・文京区・野崎様
1996年 平成 8年 2月29日
倶楽部ホームページ[INTERNET GUIDE]電脳商店街の中に掲載。私が、目標の世界の具体例が示される。それは何かの組織で商店街を募り、魅力ある優良商店街を創り多くの人達に訪問して もらい営業をやれる事を目標とするものであります。
1996年 平成 8年 3月 3日 19:14
ホームページ[永田珈琲倶楽部店]来店のお客様1400人目 突破!・東京・東久留米・船山様
1996年 平成 8年 3月 5日 22:00
ホームページ[永田珈琲倶楽部店]来店のお客様1500人目 突破!東京・小平・竹田様
1996年 平成 8年3月
倶楽部ホームページ[別冊 スコラ・儲かりまっせインターネット] 掲載
1996年 平成 8年3月 15日 20:37
ホームページ[永田珈琲倶楽部店]来店のお客様1700人目 突破!東京・荒川区・見川様
1996年 平成 8年3月
ホームページ[NIKKEI Internet Yellow Pages] 掲載・発売の日アクセス数1日60件を記録。永田珈琲倶楽部のような小さなページにとりましては驚きです。宣伝の効果改めて知ることになりました。各掲載の皆様に感謝。
1996年 平成 8年3月 19日 17:46
ホームページ[永田珈琲倶楽部店]来店のお客様1800人目突破!北海道・札幌・小池様−−−−これ以降の方達はおたよりコーナーに移ります。
1996年 平成 8年3月
ホームページ[NIKKEI INTERNET YELLOW PAGE] 掲載
1996年 平成 8年4月1日
ホームページ[YAHOO・JAPAN 立ち上げの時点でYAHOO社で登録発信]
1996年 平成 8年7月
ホームページ[インターネットマニア] 掲載
1996年 平成 8年7月
ホームページ[INTERNET MAGAZINE] 掲載
1996年 平成 8年7月
小平市美園町にMAC出店。今まで考えられなかった広さでの 進出である。まさかこの美園町にこの広さで、という展開の仕方であり、この周辺ミスタードーナッツ、ケンタッキーとFFでの大手が身近にせまってきたのである。これで珈琲という、一本芯が通ってなかったら今頃はもっと頭を抱えているはずである。世の中自体が今までは、自分の領分をある程度守りその中での動きをしてきた。しかし、幾つかの規制緩和により今あらゆる業種が垣根をとっぱらわれ右往左往している。 特に今までは法律で目一杯保護されてきた・「酒」・「米」が崩れた今、その渦中にいる人達はかなり深刻な状態です。その一介として、或いはインターネットの世界が、物流の経路を含めて強烈に破壊し始めてめているのかも知れない、とそう思われてきます。
1996年 平成 8年8月
「ほのぼのマイタウン 」掲載
1996年 平成 8年8月
[スターバックス・銀座東京に出店!]1987年10月、東京 吉祥寺で「コーヒー戦争」が勃発。あれから9年の月日がたちアメリカNO1の店数と出店スピードを誇る スターバックスがいよいよ日本に上陸し「新コーヒー戦争」の様相を呈してきた。私が3年前サンフランシスコで見てきた光景が(味的には別に取り上げることはなく、売り方、雰囲気等を学んできましたが) 今日本で見られるようになったということになります。まさか薄いアメリカンのイメージが強いアメリカから日本に来るとは・・・・。これからはマーケティング、資本力をひっさげての大きい企業からの参入は これまでのコーヒーの世界を新しく塗り替えていく予感が致します。それ故によりいっそうの味を追求して いかなければそれこそ旧態依然の喫茶店はここ数年で本当になくなっていくものと思われます。 ある意味でスターバックスの(アメリカからの)今回の出店は厳しく見ますと一般喫茶店の最終段階の始まりを意味しているのかも知れません。
1996年 平成 8年8月
倶楽部ホームページ[別冊 スコラ・恋をしまっせインターネット] 掲載 これはこれは顔写真入りで大きく出してくれました。
1996年 平成 8年9月
[喫茶&スナック ・飲食店アンテナページに]掲載
1996年 平成 8年9月
[小平商工会・商店街活性化のためになにをしたか?]講演会
1996年 平成 8年9月
[インターネット・ショッピングガイド]ナツメ社 掲載
1996年 平成 8年9月
[小平商工会・インターネットはむずかしいか?むずかしくない!]講演会
1996年 平成 8年10月
[シルバープラザ]掲載
1996年 平成 8年11月
[日経レストラン・ホームページで発進しよう]掲載
1996年 平成 8年12月
[日経流通新聞・電脳チャレンジャー]掲載
1997年 平成 9年1月
[サライ]掲載
1997年 平成 9年3月
[小平商工会・市民を対象にホームページ作成]講師
1997年 平成 9年3月
珈琲業界は今年は価格の面で激しく変動しそうです。 すでに昨年からブラジルの質の良いのが出回らなくなり(当倶楽部は有り難いことにブラジル系統は下坂農園のおかげで常に良い豆が手に入っています)今年の中間あたりはかなり心配されます。ブルーマウンテンNO1の次に高いハワイコナ・エクストラ・ファンシーも12月から当倶楽部にも入って来ていませんでしたが、現在もなお情報ありません。そして生豆はニューヨーク相場が上がりまして、当倶楽部への入荷分もすでに値上げされているのです。マスコミではまだ大きく取り上げていませんが(消費税、ガス、電気等の値上げの事もありますのでタイミングをはかっているのかもしれませんね)さてこれからどうなるんでしょうか?
1997年 平成 9年4月
[実業の日本社・ポケット・カンパニー]掲載
1997年 平成 9年4月
 先月お伝え、心配してました珈琲生豆価格がやはり急騰致しました。
生産量の減少と消費量の増加で在庫水準が落ち、さらに主産地の減産見通しで、 ニューヨークの先物市場は年初から一本調子で9割近く値上がりしているわけです。 その原因は、世界の総生産量の3割前後を占めるブラジルの生産量がはかばかしく ないことが大きく、1994年に霜害が発生して生産量が大幅に落ち込み、いまだに それまでの水準を回復していない。昨年末から今年にかけ、米農務省やブラジル政府 が相次いで減産予測を出したことから先物市場に投機の買いも入り、いっそう相場を 押し上げているわけです。 一方で、消費量も伸びていまして、業界ではこの3年ほど で世界の消費量が1割以上増加したと見ています。特に産地のブラジルやメキシコ国内 の消費量が増えたため、国外への輸出減につながっているという、いくつかの要因が重 なってきているようです。

1997年 平成 9年4月
いよいよ日本でも珈琲が健康食品として捉えられる気配が強くなりました。
それは先々月お知らせいたしました、珈琲が肝臓に良いという記事に続きまし ての第二弾は『珈琲の香り』がなんとガンに効きそうだという、嬉しい 情報です。
その前に申し述べたいことは、いつも珈琲の論議になる時、実験時に おける豆の状態なのです。生豆の時の状態は?焙煎してからどのくらい 経っているのか?挽いてからどのくらい経っているのか?焙煎度合いは? 立て方は透過法か煮出し法か浸漬法か?香りは液体に溶け込んだときより も挽いている時が高いのではないのか等々、身体に良いか悪いかは、ある 限定された(腐っていないとか、脂肪分の溶けだし量とか)時間内に行わ れないと又基準が揺らぐことになります。無関係ではないと考えていますので、 この点に関してもっと詳しい資料がほしいものです。
『コーヒーの香りにガン予防効果』
入れ立てのコーヒーの香りは、ガンや心臓病の予防に大きな効果があり そう−−。サンフランシスコで開かれた米化学学会で、珈琲党を喜ばせる こんな研究結果が報告されました。報告したのは米カリフォルニア大学 デービス校の日系研究者「タカユキ・シバモト教授」。研究によりますと、 新鮮なコーヒーの香りには、ガンの要因となるDNAの酸化や心臓の老化 を妨げる、少なくとも300種類の酸化防止化学物質が含まれ、効果は ビタミンE、Cに匹敵するという。カフェインの有無は関係なくカップ一杯 分の効き目はオレンジ3個分。ただし、入れてから10分〜20分のコー ヒーに限られるということです。教授は「コーヒーの身体へのマイナス面 ばかり指摘されるが、長年、世界各地で多くの人たちが愛好してきたのは、 何かあるはず」と研究を思い立ったそうです。

☆・・・・・人間の寿命の数十倍の歴史を積み重ねている珈琲。いつの時代も一面 偏った考え方をされ続けている珈琲。ある時代には迫害さえも受けた珈琲。 しかし現代もなお歴史を超えて世界中の人々に愛飲され続けている珈琲。
この頃私は、珈琲に携わってこれたこと、又こうやって珈琲のことを、 私なりの考えで発信できることを考えた時、まだ求めるものがたくさん あるにしても良かったなあとつくづく思います。たかが一人の発信ですが、 珈琲豆自身が主張したい本当の姿を、継続という時間の積み重ねの中で いくらかでも手助け表現してあげてるのかなあ、とも思います。 行き着くところは、珈琲を美味しく飲むのに能書きはいらないのでは、とも考えます。 (そのためには勿論、過程におきましてはたくさんの条件ありますが)              ・・・・・・・・・☆

1997年 平成 9年5月
ようやく[ISDN]接続。快適性向上。
1997年 平成 9年5月
[丸井国分寺店・食遊館]に珈琲豆小売りで一週間出店
1997年 平成 9年6月
[知致]掲載
1997年 平成 9年6月
『美味しく飲めて、楽しんで、おまけに健康に良い』
と珈琲愛好家にとっては誠に嬉しい  研究発表のタイトルを一挙ご紹介いたしましょう。
多くの病気を治す と最新研究で続々わかった。
珈琲は薬だ!

1997年 平成 9年8月
[倶楽部内ミニインフラ整備・ファイルの共有化なる!]

1997年 平成 9年9月
[中小企業事業団中小企業大学校] 講師

1997年 平成 9年9月
[ハワイコナ NO1遂にブルーマウンテンNO1の値段に]

1997年 平成 9年10月
[高崎にて・珈琲物語]  講師

1997年 平成 9年10月
[Mac Fan internet・11月発売の12月号に掲載]
当倶楽部の一連の流れ(焙煎から一杯の珈琲迄)が
JAVA特集の中でイメージショットとして紹介されます。非常に丁寧な取材でしたので楽しみです。
全国発売ですので機会ございましたらご覧下さいませ。

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